ビオラコンクール表彰式



チェロコンクール表彰式


バイオリンコンクールの表彰式



本研究会は創立20年になります。弦楽器の製作及び修理に関する技術研究を行っています。作品発表展示会、研究会(会員のみ)、講演会の開催を行います。音楽文化の発展に寄与し、会員相互の連携、親睦を図ります。
ヴィオッティの曲が演奏される機会は少ない。しかし、バイオリン史上
に輝かしい足跡を残している。フランスのバイオリン教師群達の先生が
ヴィオッティである。バイヨ、ロード、クロイツェルと続いていく。
またヴィオッテイがトルテに助言して、近代のモダン・ボーを生みだした。
昔のクラシック・ボーは現在とそりが反対になっていた。最初にストラディ
バリウスで演奏して、その後の人気のもとになった。ストラディバリウスで
「ヴィオッティ」と名付けられた楽器が残っている。
バイオリン協奏曲第22番というと、四大バイオリン協奏曲を知る者に
とって驚くべき数字である。最近では余り演奏する機会はないが、コン
サートマスターを多く経験している豊嶋泰嗣氏が一夜で3つのバイオリン
協奏曲を弾いた時、その1つがこのヴィオッティであった。イツァーク・
パールマンがジュリアード音楽院の生徒達とこの曲を弾いたCDが発売
されている。昔、この時のドキュメンタリーがNHKBSで放映されて
いた。今回、参考のため、奏者の星野さんに提供させていただいた。
星野さんは今回、試奏会で4回も弾いていただき、自分の曲として、
消化されていた。リクエストした者として、うれしい限りである。バイオ
リンの曲には、美しい曲が数多くあるが、今回その1つを紹介させていた
だいた。
「毎日9時間、製作に没頭した。チェロを
削るのは体力の限界に挑戦するのと同じで、
夕方には倒れ込んでしまうほどでした。根
を詰めて体を壊したこともあった。でも製
作をやめようと思ったことはなかった。
努力した分だけそれが作品に現れる。形や
寸法だけではない何かが音に現れる気がす
る。楽器製作に巡り合えた運命に感謝してい
る。」と語る。
楽器製作で心がけていることは?とお聞き
すると、「私の人生のモットーはチャレンジ
。新しいモデルの依頼があると嬉しいのです。
製作モデルはデルジェスが基本で、今までイザイ、ビュータン、コバンスキー
を作ったが、次はハイフェッツモデルを製作する予定です。それぞれのモデル
とペグ、テールピースの材質との相性も調べてみたい」と熱く語られた。
VSJに期待することは?とお聞きすると。「心中したいくらい好意を持って
います。会員の皆様にも随分お世話になりました。まず小林陽一さん、今使って
いる図面や資料はほとんど彼からもらいました。久我一夫さんにもいろいろ教わ
り、富川 智さんの福島の工房には泊りがけでお邪魔し、いかに美しく仕上げる
かを教わりました。石井健夫さんの教室には何度も通い、その結果は音質にも
変化があったと感謝しています。生命ある限り製作していきますので、皆様よ
ろしくお願いします。
佐上さんは現在81歳、今までに作ったバイオリンは50数台、ビオラ17台
チェロ5台。これら佐上作品による室内楽が大阪と東京で開催され大きな反響
を呼んだ。作品は庄司紗矢香さん、細谷真理さん、芸大生などに愛用されている。
当会には、同じ製作者として頭が下がるような努力と研究、そして社会に貢献をしてこられた先輩がたくさんいらっしゃいます。VSJの原点として、本レポートに連載していくことになりました。初回は小林陽一さんです。
大正4年7月8日福岡県生まれ、今年92歳になられました。旧制九段中学を卒業後、鉄道省に入省。昭和15年、25歳のときに陸軍に徴集され自動車隊に配属、兵役後は現在のキャノンに入社し、レンズの研究。太平洋戦争で2度目の徴兵、30歳で結婚。終戦後は交通公社職員としてロシア、オーストリアなど世界の音楽の都を訪ねることができたそうです。激動の人生の中、変わらなかったのが音楽への情熱。中学生のときバイオリンに興味を持ち、アマティ、ストラディバリやガルネリの文献を調べ、音楽の先生にバイオリンを作りたいと相談した。しかし父親の猛反対で諦めざるを得なかった。でも、いつかバイオリンを作りたい!と社会人になってからも文献を集め続けたのだそうです。
ヘロン・アレンの原文をたよりに初めてバイオリンを作ったのが62歳。音楽之友社主催のバイオリン作り特集に応募し、初めて専門家の指導を受けることができたのが66歳の時だったそうです。その後一年に2台ずつ作り続け、今まで作ったバイオリンは35台、ビオラ4台、チェロ8台。これらの多くは現在、千葉県少年少女オーケストラで使われている。きっかけは佐治薫子(さじ しげこ)先生との出会いである。ある日、小学校の窓越しにすばらしいエグモントを聞いた。そして楽器が足りなくて困っていた先生に小林さんは楽器の提供を申し出たのである。その後も多くの作品が託され、佐治先生は数々の小学校のオーケストラを優勝させた。先生が定年となる1996年、千葉県は少年少女オーケストラを創設し彼女を音楽監督に就任させた。
小林さんの喜びは自分の作品が少年少女オーケストラで代々引き継がれ、弾いてもらえること。そして卒団した子供たちがバイオリニスト、ビオリスト、チェリストとして活躍を始めていることだそうです。
今回ご紹介する先輩はVSJの初代会長
佐藤康夫さんです。2001年、日本弦楽器
製作者協会の私達の準会員が存続の危機に
あった時、佐藤さんは私たちの代表となっ
て。権利を守り、平和的に分離、独立させ
るために尽力され、初代会長として当会を
一人立ちさせてくれた方です。
佐藤さんは1933年1月新潟県上越市(直
江津)に生まれ、旧制高田中学、高田高校
を経て早稲田大学第一理工学部を卒業。首
都高速道路公団計画部長、八千代エンジニ
ヤリング(株)常務取締役などを歴任。
バイオリンに初めて触れ合ったのは、幼少の頃に蓄音機で聞いたエルマン
のトロイメライ。高校の時、お父様に鈴木バイオリンを買ってもらったが、
演奏は中断。社会人になって仲間」と弦楽合奏をはじめ、それが縁で行方
不明になっていた鈴木バイオリンと再会する。そして修理のため松岡順治
氏と運命的な出会いをすることになったのである。バイオリンを作り始めた
のは40歳の頃、全ての精力を製作一筋につぎ込んだ。当時は情報も少なく、
松岡氏の話とヘロン・アレンの本が頼り。技術は自分で盗むものという職
人気質の時代で、先輩の話に耳をそば立て、楽器を穴の開くほど見て回った。
近所のお宅にDel Gesuがあるらしいことを聞きつけて弾かせてもらいに行っ
たり、デパートなどの展示会を見つけては、頼み込んでStradやDel Gesuを
弾かせてもらった。ニスを探して電話帳を頼りに江東区界隈をさまよい歩き
麒麟血を求めて漢方薬店を訪ね、カテキュウは織物店で見つけた。とにかく
ホルバイン社を訪ねてもマスチックの名前すら知らないという時代だった。
佐藤さんの楽器作りは上述のように、楽器を良く見て、実際に弾くこと
から始まっています。日本弦楽器製作者協会の準会員となり、1990年に手工
弦楽器展にて協会賞を受賞されています。「バイオリンは基本的に音楽を奏
でる道具ですから、ちゃんとした音が出なければなりません。しかしその上
にきっちりした製作技術と美的要素が必要だと思います。良い楽器は必ず何
か美を感じさせます。またその様な楽器は音もしっかり出ていて、完璧な楽
器はオーラすら感じさせます。表板、裏板などのアーチングを見れば、その
楽器がどのような音が出るか、おおよその想像ができるものです。」とおっ
しゃっていました。佐藤さんは長年製作されていますが、自分の楽器には
色々な欠陥が目に付き、未だに満足できる作品がないとのことで、現在も
謙虚に製作に取り組まれています。
今後のVSJに期待することは?「バイオリンの製作にはプロもアマも
ありません。より良い楽器を製作しようとする製作者は勿論、バイオリン
製作に興味のある音響研究者や演奏家にも参加してもらい、自由に話し合い
研究し合える、開かれた会になってもらいたい」とおっしゃっていました。
東京在住のお姉様との知り合いという偶然
から、世田谷区等々力に工房のあったある製
作者の先生と知り合うと事になったのがきっ
かけで、この道にどっぷりとつかることにな
ってしまったのです。以来、全国各地に転勤
すりたびに、その地域の製作者の門を叩き
独学で作り始めました。いろいろな方たちと
も知り合い、例えば、徳島に行ったときには
香川県の現会員、対馬貞夫さんともお会いし
ていたとのことです。
その当時、日本弦楽器製作者協会にはそう
した方々と楽に入会できたそうで、弦楽器なら何
でもよく、三味線から胡弓や二胡、あるいは沖縄
の三線からギター、リュートなどの製作者まで、
幅広く、会員がいたのだそうです。その頃、同協会
には「昭和の親方」として有名な無量塔蔵六さんや
陳 昌〇さんたちとも活動し、そして定年以降は
故郷の伊豆の国市のご自宅工房でひたすら製作に
励まれました。
買ってもらったバイオリンは自分の弟のよう
であった下宿の息子さんに差し上げてしまった
が、今ではその何十倍ものバイオリンになって
還ってきたと思えてならないのですと語る。
定年退職後も毎日バイオリンを作り続け、ま
もなく85歳になられるが、「春の作品展示会
」には香川県さぬき市から家族の皆様のリレー
で駆けつけて下さる。「対馬さんにとってVS
Jとは?」とお聞きすると「勉強の場でもある
し、生きがいの場でもあります。明日館がとて
も好きです。お客様がさらに増えて1000人く
らい来てくれるようになって欲しい」との言葉
を頂いた。製作で使い過ぎた指は曲がり、痛み
もあるが、作品が完成したときに音出しに弾く曲
は必ず、お父様との想い出の曲「浜辺の歌」で
ある。
現在の師匠であるラザーリ氏から
は。「美しい楽器とはどういうも
のか?」を集中的に学びましたが
それは今までの概念をすべて変え
るくらい、衝撃的なものでした。
例えば、エフ孔を切る時、それ
までは、鉛筆で書いた下書きの線
を頼りに削っていたのですが、黒
い線が邪魔で本当の線が見えてこ
ないという理由で、ラザーリ氏は
途中で下書きを消してしまうので
す。これは、すぐには真似のでき
ないことでしたが、良い楽器の実
物や写真を見本にしながら、イメ
ージを明確にして製作に取り組む
ことで少しずつできるようになり、それ以降、私の楽器は徐々に
評価されるようになりました。
私が楽器製作のプロとなって最近特に
感じるのは、楽器作りで一番重要なこと
は、楽器作りで一番重要なことは楽器製作
に対する熱い情熱や探求心を持ち続ける
ことだと強く感じます。ただ毎日同じ仕事
を続けるだけでなく、仕事に対する情熱や
探求心があってこそより一層よい楽器作り
へと向上できるのだと信じております。
私はそれを当時準会員部門であった日本
バイオリン製作研究会のみなさんから受け
継いだと思っています。そして、その頃に
感じたみなさんの情熱や熱意が私のそれから
の道を決めました。
十数年もアマチュアとしてヴァイオリンを作り続けられたこと、そして
プロになったこれからも熱意を持って仕事を続けられること、これもみなさん
から受け継いだ熱い情熱と探求心があったからだと思っております。そして
今でも研究会のメンバーとして遠く離れていてもみなさんと同じ道を同じ熱意
を持って進んでいきたいと思っています。