根本 和音さん

●バイオリン製作者を志したきっかけ:もともとのきっかけは自分の父親ですね。話し出すと凄く長くなってしまうんですけど、僕は小さいころから物作りが好きで、父親が音楽家で祖父が家具職人で、僕が物を作るのが好きでなんか音楽関係のモノづくりということでじゃあ楽器を作る仕事に付けばいいんじゃないか、みたいなところから始まっていて、それで長野の番場 順さんの工房を10歳の夏休みかなんかに見学させていただいたのが弦楽器の製作という存在を知ったきっかけですね。その後からバイオリンの演奏を習い始めて、技術職なんで早く始めた方が上達できるんじゃないかということで、中学卒業後すぐにクレモナの製作学校に入学した形です。

クレモナでの苦労話或いは日本より良かった点:勿論良いところもあり、悪いところもありで、僕がクレモナに行ったのが2007年だったんですけど、その前に2001.9.11同時多発テロ事件があったので18歳未満での1人での渡航が禁止になっていたんですよ、当時。それがあってアリタリア航空で飛んだんですけど本来1人では飛べないからというのでコーディネーターみたいな方をアリタリア航空から付けていただいて、それは年齢が18歳未満の人に無料でつけてくれるみたいな制度が当時あって、飛行機の乗り降りを全てサポートしてくれたり、あとは当時クレモナの学校に所属していた、その時の僕の先輩に当たるフランス人の方で奥様が日本人で8か国語ぐらいしゃべれる方だった。でその方がクレモナに滞在してらっしゃって、ホームステイのような形でお世話になり始めて、イタリアで言うところの成人になっていなかったので家は借りられない、1 人でいろいろな手続きができないので、すごく世話を焼いてくださいました。18歳になるまではイタリアでの滞在許可が下りなかったので、日本に3ヶ月いて、イタリアで3ヶ月滞在してまた日本に戻るというのを2年間続けた形ですね。日本からイタリアに通っているという感じです

イタリア語の習得:言語はほぼゼロから行って1・2年生のときも製作学校は一般科目もあるので3ヶ月ぐらい滞在してイタリア語になれた頃、日本に戻らなければならず、忘れて戻ってきてまた3ヶ月ぐらいでそろそろ慣れてきた頃、また帰らなければならないという繰り返しで、最初の2年は何もしゃべれな
かったです。3年生に上がるときに1年間こっちにいられるようになり、そこからちゃんとしゃべれるようになったというか、何とかコミュニケーションが取れるぐらいにはなってきて、3年生の終わりの小論文を書く時ぐらいには割としっかり話せるようになってきた感じでした。

最初のバイオリン製作とその後:2年生のとき1年ぐらいかけてバイオリン博物館で売っているバイオリンメーキングの本を買って白木で1本作ったんですよ、1人で家で。フランス人の方も学校の先輩だったんでちょっと教えてもらいながら作って、それ以外は弓をずっと家で作っていました。ほぼ独学で。3年生の時にその白木のバイオリンを学校のマエストロの工房に見ていただきに行って、そのぐらいから学校の師匠の工房にチョコチョコ顔を出すようになって、だんだん話せるようになったんですよ。そこからは本当に師匠に付きっきりというか、製作学校の先生でもあり、学校外でも僕のことを構ってくれるマエストロみたいな感じで、その師匠の工房に通い、学校に行きながら楽器を作っていたという形ですね。

/その頃作っていたモデル:当時作っていたのはストラドモデルで、師匠が最初の数台はモデルを固定しようという方だったので1689年ストラドモデルでずっとやっていました。

根本さんはトリエンナーレのチェロ部門で優勝(ゴールドメダル)されました。その時の詳細については、インフォーメーションに投稿しておきます。 

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